太平洋戦争の終戦2日前の1945年8月13日、京都に生まれ育った19歳の特攻隊員が沖縄の海に浮かぶ艦船へゼロ戦で突入した。青年は最後の2か月間、鹿児島県の喜界島で出撃をひたすら待っていた。75年がたった夏。
特攻で亡くなったのは星野實さん。26年、伏見区下鳥羽の農家に四男として生まれた。下鳥羽尋常小(現・下鳥羽小)を卒業し、桃山中(現・桃山高)を経て43年6月、16歳でパイロットの基礎訓練を積む海軍飛行予科練習生(予科練)になった。
海上自衛隊鹿屋航空基地史料館(鹿児島県鹿児島市)によると、45年6月10日、實さんが所属した神風特攻隊「第二神雷爆戦隊」は鹿屋の基地から、沖縄へ向かう特攻機の中継基地となっていた奄美群島の喜界島へ移った。以降、出撃命令を待つ日々が続いた。
島に暮らす栄ヤエさん(96)は隊員たちと交流があり、實さんのことを覚えていた。自宅は兵舎の近くにあり、實さんはヤギを見るのを楽しみに毎日のように半袖シャツ姿で訪れた。稲刈りを手伝い、生家での農作業の様子を伝えた。柔らかな物言いで妹の話をしきりにしていたという。
8月11日、出撃命令が下る。實さんら隊員は1人ずつ計5機で出撃。家の外で見送った栄さんの上空で、何度も左右の翼を上下に振るゼロ戦が1機あった。「優しい顔をしていてね、男前だった」と栄さんは、照れるように笑った。
同史料館の説明では、出撃した5機のうち3機は機体の不具合で引き返し、實さんらの2機がそれぞれ500キロの爆弾を積んで敵艦に向かった。日没45分後の午後7時50分、實さんは「我敵空母に必中突入中」と打電した後、消息を絶った。突入したのは後に、空母ではなく揚陸艦とみられることが分かった。
「特攻の 名も世に出でず 埋木の つぼみに散りし 我子思へば」。
實さんの父の市三郎さんは息子の死を悼む歌を詠んだ。生家には遺品とみられる絹の布が残されていた。土浦、鹿島、博多、天草、舞鶴と行動した部隊の推移とともに、「轟沈」「必沈」と書かれ、特攻機が敵艦に突入する絵も描かれていた。
8月11日付 京都新聞より
私の親族(祖父)もまた、特攻隊員でした。
生きたかったはずです。きっと生きたかったはずです。
すすき穂高く 山風を待ち そして華と散ることが人としての役割であった。
この記事を拝見して改めて先人に感謝しました。
あたりまえなどと思ったことがありません。今を苦しいなどと思ったこともありません。
「なんとかなる」はなんとかならないことを教えて頂きましたから。
英霊に合掌
館主