一昨日、京都の旅館青年部の総会がありました。
なんだかんだと(個人的に)愚痴りながらも1年が過ぎました。
親会の顔色を伺いながら行動を移さなければならないという、
組織運営のめんどくささ、いえ、難しさはひとつ勉強になりました。
この一年はオフィシャルの青年部に対して、好き勝手に集まる粋人会。
また青年部会長の提案により発足したインターネット委員会に経営研究委員会・・・
わりと同業者と顔を合わせる機会が増えました。
コミニケーションが取りやすくなり、なにか困った事があれば連絡しやすくなったという事は大変あり難いことです。また、旅館という特殊な同業者でしか理解されないであろう出来事も酒を飲みながらでも話せるようになったのは一番のストレス発散方法かもしれません。
さて、総会は五条に位置する「清鴨楼(セイコウロウ)」さんでです。
夜からの懇親会は40名近い参加者でした。
おそらく皆適当に着席したはずなのですが、
窓際は30代後半〜40代、廊下側は30代前半と固まっていました。
この事は某さんが閉会の挨拶でも言われていましたが、
こうやって長い歴史の中で定期的に入れ替わりがあると思うと
なかなか興味深いことでした。
私が一番若いと思っていたら、5つ下のご近所の跡継ぎが昨年より入会され、
ますます旅館の世代交代を実感します。
・・・って、若い私がいうことではないか。
閉会後は勝手に清鴨楼さんの館内見学。
2年ほど前にリニューアルされた部屋も含めて
見学していたメンバーもやっぱり若い。感受性が強いのか、勉強熱心なのか。
ところで、京都北部の旅館さんでは青年部の退会者が3名いると聞きました。
京都市内になかなか出られない、地元で基盤を固めるという理由だそうですが
お会いした事もない3人が立派に思えました。
私は全旅連か国観連か地元の組合かしらないが、
本業を全うしてこそ地域社会の貢献に値すると思っています。
(従業員の安定した雇用や旅館に経由するまでの客の動線や消費云々)
やはりこれまでの考え方は変わらず、
経営の歯車がきちんと回転していないのに
私がノコノコと多くの会合に出て行くのはやはり矛盾しているような気がしました。
たった一つの館なのにやらなくちゃいけない事は山積みです。
ただ、1年前の私と違うのはあまりガチガチに考えずに
酒の席=ストレス発散・・・程度に構えて
本業の現場に支障のないときは参加してコミュニケーションをとってもいいか、と考えるようになったという事です。
なんだかんだと(個人的に)愚痴りながらも1年が過ぎました。
親会の顔色を伺いながら行動を移さなければならないという、
組織運営のめんどくささ、いえ、難しさはひとつ勉強になりました。
この一年はオフィシャルの青年部に対して、好き勝手に集まる粋人会。
また青年部会長の提案により発足したインターネット委員会に経営研究委員会・・・
わりと同業者と顔を合わせる機会が増えました。
コミニケーションが取りやすくなり、なにか困った事があれば連絡しやすくなったという事は大変あり難いことです。また、旅館という特殊な同業者でしか理解されないであろう出来事も酒を飲みながらでも話せるようになったのは一番のストレス発散方法かもしれません。
さて、総会は五条に位置する「清鴨楼(セイコウロウ)」さんでです。
夜からの懇親会は40名近い参加者でした。
おそらく皆適当に着席したはずなのですが、
窓際は30代後半〜40代、廊下側は30代前半と固まっていました。
この事は某さんが閉会の挨拶でも言われていましたが、
こうやって長い歴史の中で定期的に入れ替わりがあると思うと
なかなか興味深いことでした。
私が一番若いと思っていたら、5つ下のご近所の跡継ぎが昨年より入会され、
ますます旅館の世代交代を実感します。
・・・って、若い私がいうことではないか。
閉会後は勝手に清鴨楼さんの館内見学。
2年ほど前にリニューアルされた部屋も含めて
見学していたメンバーもやっぱり若い。感受性が強いのか、勉強熱心なのか。
ところで、京都北部の旅館さんでは青年部の退会者が3名いると聞きました。
京都市内になかなか出られない、地元で基盤を固めるという理由だそうですが
お会いした事もない3人が立派に思えました。
私は全旅連か国観連か地元の組合かしらないが、
本業を全うしてこそ地域社会の貢献に値すると思っています。
(従業員の安定した雇用や旅館に経由するまでの客の動線や消費云々)
やはりこれまでの考え方は変わらず、
経営の歯車がきちんと回転していないのに
私がノコノコと多くの会合に出て行くのはやはり矛盾しているような気がしました。
たった一つの館なのにやらなくちゃいけない事は山積みです。
ただ、1年前の私と違うのはあまりガチガチに考えずに
酒の席=ストレス発散・・・程度に構えて
本業の現場に支障のないときは参加してコミュニケーションをとってもいいか、と考えるようになったという事です。