私の祖父は大正14年1月2日生まれでした。
生まれてまもなく死んだ人間も含めて10人兄弟だったと聞いています。
祖父は双子でしたが、兄は戦争で亡くなりました。
顔が似ているので、下の写真は
もしかすると祖父ではなく、双子の兄だったかもしれないそうです。
新門荘は戦後のどさくさの昭和24年の創業です。
もともと病院であったこの敷地を
曽祖父が買い取ったことから始まったようです。
2年後には私の父が誕生しています。
祖父は人一倍、ほんとに子供が大好きだったと聞いています。
私が生まれて半年後に祖父は亡くなっているので、勿論記憶はありません。
しかし「おじいちゃんが生きていたら、孫が6人もいることを
ほんっとに喜んではったやろう〜なぁ〜…」と
祖母は口癖のように言っていました。
地蔵盆をはじめ子供が集う地域の行事ごとには
喜び張り切り、とても羽振りが良かったようです。
また非常に奉仕精神があった人だったとも聞いています。
新門荘から徒歩5分に知恩院がありますが、その敷地内に養護施設があります。
祖父はことある度に、使わなくなった寝具をはじめ
なにかと寄付をしていたようです。
ある時、いつものように何かしらを届けたときのこと。
施設の方が、お名前くらい聞かせてくださいと尋ねても
「いや〜名乗るほどの者ではないです」といつものように去ったそうですが、
とうとう車のナンバープレートから探しだされ、
新門荘の人間だと分かり後日お礼に来られたそうです。
しかし、晩年は飲んだくれもいいとこで、朝から「鮭」茶漬けならぬ、
日本酒を白ご飯にかけて「酒」茶漬けをしていたと聞いています。
人の良い祖父に付け込む人もおり、旅館のこと以外にも
いろいろと気苦労が多く、気の毒だったと祖母から聞いています。
そのストレスからの一日4箱のタバコと飲酒が寿命を縮めたのでしょう。
54歳の若さで亡くなりました。
本日8月15日は終戦記念日ですが、もし戦死した双子のお兄さんが生きていたら
ここ新門荘はどうなっていたのでしょうか。
順序でいえば家督は、その兄が継いでいたでしょうし
そうなると祖母とは出会っていなかったかもしれません。
父は生まれてこず、私もこの世にいない…?!
歴史に「if」は禁止ですが、今日はふとそんなことが頭をよぎりました。
(一部2008年11月19日のブログから抜粋)
生まれてまもなく死んだ人間も含めて10人兄弟だったと聞いています。
祖父は双子でしたが、兄は戦争で亡くなりました。
顔が似ているので、下の写真は
もしかすると祖父ではなく、双子の兄だったかもしれないそうです。
新門荘は戦後のどさくさの昭和24年の創業です。
もともと病院であったこの敷地を
曽祖父が買い取ったことから始まったようです。
2年後には私の父が誕生しています。
祖父は人一倍、ほんとに子供が大好きだったと聞いています。
私が生まれて半年後に祖父は亡くなっているので、勿論記憶はありません。
しかし「おじいちゃんが生きていたら、孫が6人もいることを
ほんっとに喜んではったやろう〜なぁ〜…」と
祖母は口癖のように言っていました。
地蔵盆をはじめ子供が集う地域の行事ごとには
喜び張り切り、とても羽振りが良かったようです。
また非常に奉仕精神があった人だったとも聞いています。
新門荘から徒歩5分に知恩院がありますが、その敷地内に養護施設があります。
祖父はことある度に、使わなくなった寝具をはじめ
なにかと寄付をしていたようです。
ある時、いつものように何かしらを届けたときのこと。
施設の方が、お名前くらい聞かせてくださいと尋ねても
「いや〜名乗るほどの者ではないです」といつものように去ったそうですが、
とうとう車のナンバープレートから探しだされ、
新門荘の人間だと分かり後日お礼に来られたそうです。
しかし、晩年は飲んだくれもいいとこで、朝から「鮭」茶漬けならぬ、
日本酒を白ご飯にかけて「酒」茶漬けをしていたと聞いています。
人の良い祖父に付け込む人もおり、旅館のこと以外にも
いろいろと気苦労が多く、気の毒だったと祖母から聞いています。
そのストレスからの一日4箱のタバコと飲酒が寿命を縮めたのでしょう。
54歳の若さで亡くなりました。
本日8月15日は終戦記念日ですが、もし戦死した双子のお兄さんが生きていたら
ここ新門荘はどうなっていたのでしょうか。
順序でいえば家督は、その兄が継いでいたでしょうし
そうなると祖母とは出会っていなかったかもしれません。
父は生まれてこず、私もこの世にいない…?!
歴史に「if」は禁止ですが、今日はふとそんなことが頭をよぎりました。
(一部2008年11月19日のブログから抜粋)